「ワンパンマン」が大好きなので、「本気の趣味で写真家をやっているものだ」というフレーズで自己紹介する「ひでっとる」です。よろしくお願いします。
作品を前にして、作品について語れるのは、とても楽しい時間です。貴重な経験となります。展覧会で作品を発表しているなら、出来るだけ立ち会いましょう。
今回は、ノコギリノコドウの5回目で、写真展で来場者の方々とどのようにコミュニケーションしていたかを、実際の作品の説明を兼ねてお伝えします。
- 写真作品【ノコギリノコドウ】の概要を説明します。
- 展覧会でのコミュニケーションしていた具体的な内容です。
- 会場で立ち合うからこそ得られたご縁を最後に紹介します。
始めに少しだけ、声掛けのきっかけやタイミングについて
僕は、ご来場いただいた方は基本的に作品に興味を持っていただいているという前提で動きます。なので、ある程度強引に切り出しても、嫌がられることはないので、ガンガン攻めて話しかけてしまいます。
同時に、作品を鑑賞するスタイルは千差万別なので、ターゲットの方がそろそろ作品を見終わるかな?と思うタイミングを基本としています。
まずは鑑賞いただくことが先決で、その補足説明をするつもりで近づきます。
あとは、勘ですが、ここで説明しても良いな?と呼吸が合いそうな雰囲気をつかむ(説明になっていなくてすみません)ことに集中しています。ですので、
僕の作品展では、獲物を狙う鷹の眼で、皆さんを凝視していますので、背後の視線にご注意ください。
一宮市ってどんなところ?繊維の街について
愛知県一宮市は、第二次世界大戦後の昭和30年代頃には繊維業の工場が集結して、とんでもない規模の産業集積地でした。詳しくは、以下の動画をご覧ください。国際芸術祭「あいち2022」芸術監督の片岡真実様と、国島株式会社相談役の伊藤正樹様の対談です。
国際芸術祭「あいち2022」愛知と世界を知るためのリサーチ ①監督と学ぶ 第1回「一宮が繊維の街になったのはなぜ?」 – YouTube
現在の一宮市内の地域で約5000件のノコギリ屋根の工場が存在していました!すごくないですか?街中でガッチャンガッチャンと機を織る機械の音が響いていたと想像すると、なんと活気のある事かと思うのです。
ちなみに、ノコギリ屋根の工場とは、屋根の形状がノコギリの刃に似ていることから、そのように呼ばれています。
現在でも、2000と数百件の工場の建物が残っています(撮影当時は2700件程確認しました)。そして、工場として稼働しているのはその中の300件程と言われています(撮影当時からもどんどん廃業されていると聞きます)。これが、【ノコギリノコドウ】の舞台背景です。
作品の説明
撮影を始めたきっかけ
僕は、名古屋生まれ。住処は転々としていて、1999年に妻の故郷である一宮市に住みつきます。妻はずーっと、一宮っ子。彼女にとって当たり前の光景である、ノコギリ屋根の工場が市中各所に点在(というかそこらじゅうにある)していることは何となく知っていました。
住み始めた当初、僕は写真に関係のない仕事に就いていたので、気分的に深い沼を避けていたと思われます。他の被写体、商店街や公園にあるタワー等にカメラを向けていました。
きっかけは、念願の写真関係の仕事に就くことが出来た2013年。せっかくだから本当にやりたかった写真作品を作ろう、写真家になるぞと考えたことでした。
もともと作品は身近なものを題材にしたいという気持ちがあったので、気になっていたノコギリ屋根の工場を撮ろうと考えます。
当時小学生になる前の息子がいまして、君の故郷には誇れるものがあるのだよ、と教えてあげられるかも、と考える部分もありました。
撮影を中断してなぜか現地調査を開始
事前情報をあえて持たず、先入観なしで始めようと思って、近くを実際に見て回ってみたら、そこら中に工場の建物がありました。規模的には普通の一戸建ての2倍程度の大きさの、手のひらサイズみたいな工場がいっぱいあることがわかります。
これは、どれくらいあるか調査したら撮影する見通しが立つから、まずは調べようと考えて、思いついたのが、グーグルマップの活用でした。別記事でも紹介しましたが、再掲します。
意外と単純で分かりやすいでしょ?鳥の目線だと、工場が一目瞭然です。連なっていない1つの屋根の工場は見分けるのにコツが必要です。ストリートビューを併用して、確認しながら進めました。
まず手始めに、一宮市に残る全ての工場を特定して、マップに落とし込めば、撮影場所を探すとき楽だよね、と思いました。
手始めではなく、それだけで大変な数があることに後になって知ります。
仕事から帰ってきてからと、休日に、自分の時間ができたらすべてをつぎ込んで、この作業に没頭する事、約半年。やっと一宮市内をくまなく調査終了しました。さすがにそれ以上範囲を広げると、いつまでたっても終わらないと思って、市内限定でこのプロジェクトは進めようと決めました。
実際は、周辺の江南市、稲沢市、祖父江町、県をまたいで羽島市等、地域全体にまだまだ分布しています。かなり広い範囲で産業集積地を形成していることが分かります。
最終的に2015年現在で2700件程の工場が残っていることが分かりました。
撮影ー工場の建物の外観
撮影は、機動力の高い自転車に乗り、カメラを持ち、簡易脚立を乗せて、工場の場所に印をつけたマップを入れたスマホを見ながら、雨が降らないすべての休日を費やして、印をつけた工場をすべて回りました。
最初は、建物のある風景的に撮影していたのですが、撮影開始してしばらくした頃には、この作品を展示する場合どうしたら、一番この状況を伝えることが出来るか?を考え始めていました。
とにかく、数が多いことを表現するには、数多く並べた方がいいんじゃない?
と思ったのと、
どうせなら、同じ特徴のモノを集めた方が、インパクトあるんじゃない?
じゃあ、一番特徴的な向きから撮影して、建物を種類分けして展示しよう。
という考えに至って、そこから撮影方法を切り替えて、始めから取り直したのが、この作品です。
最も数の多かった2つの棟が連なるタイプ。全体の70%がこのタイプです。作品としては、108枚をグリッド状に配置して展示します。この作品で横幅が8mになるので、多くの来場者様は、
「こんなにたくさんあるんですねー」
と喜んでくれます。この展示方法を採用した意図がバッチリ伝わる瞬間です。
これは、1つの採光窓のタイプ、一番ミニマルな工場形態です。それを24枚、全体でこのタイプの建物のフォルムに合わせた展示方法を採用しました。
これは、何棟も連結しているような工場です。一か所で全体を撮影しきることが出来ないので、部分的に撮影した画像を一枚の作品になるように重ね合わせています。確か36枚くらいを合成しています。
6連以上ともなると、一枚仕上げるのにも、膨大な作業時間がかかりました。この頃は、休日は昼間に自転車で撮影をして夜は画像の加工、平日仕事からも帰宅したら画像の加工を繰り返していました。
最終的には、580件の建物を撮影し、洗濯物やポスターの写り込むものを省いたりして、百数十枚を作品としました。
撮影―工場の内部、職人さん達のポートレイト
工場を撮影して回っていると、時々ガッチャンガッチャン音の聞こえる工場があるのが分かりました。工場の外観をすべて撮り終わったころは、足掛け3年近く掛かっていて、気持ちでは半分くらいは終わった気分でいたのですが、徐々に工場内部の事が気になってきちゃうんですね。好奇心が勝ります。
僕の性格で、理由なくカメラを向ける態度は礼節を欠くと考えていたので、興味があっても、工場内部を撮らせてもらうための理由というか根拠を示す必要がありました。
工場の外観の作品を完成させたら、それを見てもらって、自分の活動を説明してなら、中で撮影させてもらえるかもしれない、と自分に理由ができました。
工場の外観撮影を完了して、まとめたボートフォリオを名刺代わりに持っていって、稼働している工場を探しながら、もう一度工場を回る日々を繰り返しました。
これは、音を頼りに探すので、車やバイクでは聞き取れません。やはり、地道に自転車でえっちらおっちら市内をくまなく走ります。
後に詳しい人から300件程は現状稼働していると教えてもらった内の、百数十件を探し当て、飛び込みで中の様子を撮らせてもらうお願いをしました。その内の半数の工場で内部の撮影の許可を頂き、職人さんたちの撮影を許されたのが、十数件でした。
わざわざポートレイトまで撮影させていただけた理由は、職人さん達が、現状を伝えることの意義にご賛同いただけたことに尽きるのです。
職人さん達の置かれた状況ー産業遺産を継続的に維持する意義
なぜ、職人さんたちは、タイムスリップしたような世界で古い機械を継続して使って仕事を続けるのか?理由はそれぞれあるのですが、大きな柱として、古いタイプの織機で作る生地は、手織りに近い風合いが出せるので、手間と時間が膨大にかかるけど、高級品の生地には需要があるのです。
職人さん達の道具である織機は、ションヘル織機と呼ばれる種類の機械で、既にメーカーも製造終了して何十年も経過しているものを大事に動かしています。修理もままならない状況で稼働しています。
工賃にしても、過酷な労働に見合うだけの好条件とはいかないようです。年配の方が多いのは、年金があるから続けられると言われます。なので、後継者を立てることなく、多くの方が廃業されてしまいます。
需要の無い産業なら、自然に淘汰されても仕方ないかもしれません。でも、良い生地を生み出せる仕組みがあって、それを継続して維持する意義が見出せるのではないか?と考えると、何らかの仕組みを導入して技術の伝承が出来ないものか?と思うのであります。
ションヘル織機を稼働させるには、工場内の湿気や糸の種類等に対応して非常にデリケートな調整を続けながら運用するので、ノウハウの伝承は一朝一夕ではできないと聞きます。職人さん達の年齢を考慮すると、時間に余裕はありません。
古いハーレーだったり、フィルムのカメラだったり、あっちこっちだましだましで使い続けるじゃないですか。誤解を恐れず言ってしまうと、古い機械が稼働し続けている様は、それ自体が美しいのです。その一点だけでも、残す価値があります。もちろん機能的に意味があったり、産業としての意義、色々あります。でも、
ノコギリ屋根の工場の中で稼働しているションヘル織機の存在は【美そのもの】です。
これは、職人さん達の想いから少し離れた、僕の所見です。
だからこそ、この個展を企画し、実現できたと考えております。彼らの意思とリンクできたからこそ、走り続けることができました。
最終的に完成した一連の作品群を総称して、
タイトルを【ノコギリノコドウ】としました。
絶滅危惧種の動物に例えて、心臓の音がする、まだ生きている鼓動を探した旅でした。
以上が、この作品を一緒に見ながら、来場者様に話をした内容です。
これからの一宮市と僕の活動について
2017年の夏に一宮市で開催した個展を皮切りに、多くのお声がけをいただき、立て続けに作品展示の機会をいただきます。
- 2017年8月 個展@一宮市スポーツ文化センター
- 2017年9月 個展@名古屋市中区栄セントラルパークギャラリー
- 2018年1月 尾州の起点。3名の現代作家の共同展@一宮市起の旧田内邸
- 2018年2月 個展@一宮地場産業ファッションデザインセンター
- 2022年7月 企画展国登録文化財葛利毛織工業工場とのこぎり屋根。企画展に作品が併設@一宮市博物館
セントラルパークギャラリーの会場で、名古屋市立大学名誉教授の塩見治人先生と、学校法人日本教育財団講師の松本正義先生がご来場され、直接ご助言をいただくことが出来ました。全く目からうろこで、僕が今後の活動の礎とする知識をいただきました。塩見先生の著書の中で、松本先生がお書きになった文章にその言葉があります。
尾州には奈良朝以来の織物産業を生業としてきた歴史がある。そしてこれまで少なくとも五度の危機に直面しながら、その都度一貫して繊維産業の技術を進化させて乗り越えてきた歴史をもっている。
希望の名古屋圏は可能か 危機から出発した将来像 塩見治人ほか編 風媒社
五度も危機を乗り越えて、あのガチャマン景気が起こっているってことは、歴史は繰り返すの習いで、
六度目のガチャマン景気は必ず起こる!
と思えたのです。お二人との出会いで、僕は、現状の街の印象とは全く異なる未来像をはっきりと思い描いています。その未来の種を見つけて作品にすることが僕の目標なのです。
最後に
自分の作品から、思いもかけず、塩見先生、松本先生から希望を見つけることが出来ました。実際の作品の画像の中にも、同じように希望を見つけることができました。とある工場の柱に文字が書かれていて。。。
見事なシンクロニシティ。こういうのが大好きです。
今日も一日安全作業で頑張ろう!ご安全に。