コーヒーでさえも叶わない眠気覚ましの方法は、理不尽な話に対する怒りを覚えることだと知る「ひでっとる」です。よろしくお願いします。
ここでの自己表現とは、クライアントがいなさそうな写真であり、被写体からの依頼で撮影された写真でなさそうで、作家の表現衝動に基づいて撮影されたと思しき作品を指します。作家自身が表現したイメージを「売り」として、売買しているような作品はないかなぁと探してみたいと思ったのであります。
Blaise ARNOLD、1900年代前半のイメージを、特徴的な横長のフレームに一人のポートレイトを配するシリーズ。多分広告媒体にも使われていない、自己表現としての作品と考えると、なかなか不思議な立ち位置の作業だと、感心した次第です。
Purple Raspberry、絵画調の画像に需要を感じなかったので、これは自己表現だと確信して見ていたが、どうも、絵画調にポートレイトを仕上げてもらいたい需要は存在することを知ったのです。なので、厳密には、必ずしも自己表現を追求したわけではなく、表現手法の一つであることが分かりました。
Sasin Tipchai、とても美しい、コントラストを抑えた、少数民族や森の中の小川で展開される人々の写真。スモークを焚いてんのかなぁ、だとしたら大掛かりな仕掛け。表現方法が勝っちゃってるかなぁ。バランスが難しい。モヤの掛かる写真は少なくて良い気がする。自己表現って、自己主張の先に見つかるような気がします。
Nick Walton、こういう作品をファインアートと呼ぶのかもしれない。とても緻密な写真表現で、モニター越しでもクオリティの高さが分かる。自身の表現したい世界観を表現する方法として、写真を選んだ必然性を感じる。
Alec Dawson、圧倒的な雰囲気と、ライティングと画像処理の緻密さ。この雰囲気は、技術力があってこそ成立していると思います。写真が光画であることが良くわかります。
patrick winfield、ポラロイドを執拗に使い込んで、道具が表現の一部となっています。この道具だから自分の表現が成立したのか、お気に入りの道具を使って、自分の表現を磨き上げたのか?写真は道具ありきのメディアだけに、自問自答したくなります。
Willem van den Hoed、窓越しに見る風景や、俯瞰した視点の街並み、独特なイメージというわけではなく、今までに経験した事のあるビジュアルイメージと思ったのですが、額装した仕上がりの写真を見ると、特別感が付与されるのか、カッコ良い。やっぱり表現方法として額装は大事。
Kyle Thompson、敬愛するDuane Michalsもセルフポートレイトを残している。自撮りとは少し違う、表現手法のモチーフとして作家自身を被写体にするという選択は、今のところ僕にはない。切実な表現の渇望があるのかと想像するしか手がない。究極の自己表現。
Grant Carlson、どの写真にも、コミカルな雰囲気が漂い、作家自身の写真の楽しみ方がにじみ出ている。自分を、そして周りの人を愛している力を表現していると思います。
Ibán Ramón、無表情な建造物を距離感を保って撮って、人物の背面を全身で撮って、正面側ではこれまた無表情の人物写真。淡々と、ただただフラットに過ぎる日常、それも真実かもしれない。
Lorenzo Camevali、目新しい表現ではないのですが、フィルムカメラのテイストをまとった写真はiphoneのアプリで生み出されているようです。しかも7年以上も前のもの。iphoneであることを目新しく感じた僕は、そりゃあ、乗り遅れていますね。
Iliyan Bozhinov、絵画調、たとえばアンドリューワイエスの様な。写真の初期には、絵画に寄せた写真が流行したと聞くのですが、その需要が今もあるということがわかります。
Josep Tamarit、モノクロ作品の中で、モチーフの選び方、撮影方法など、杉本博司の影響を感じます。著名な写真家の焼き直しの上に積み重ねた末に、新しい何かが、出るか出ないか、みんな同じようにトライしていると思います。
Scott MacBride、強烈なセルフポートレイト。全部見てしまう。それほど面白いし、作者の姿勢が楽しい。
Xavier J. Peg、「***に似ているね」って言われても、誰も嬉しいと思わない。けど、一つ前のScott MacBride氏とこの作家さんは僕の中で混同していました。違う境遇の方同士だと思うけど、風貌から、表現の方向性が似ているなぁと思ってしまいました。それぞれが面白いですし。
Yung Cheng Lin、継続は力なりで、どんどん表現の独自性が研ぎ澄まされて、今の表現に至る変遷そのものも美しい。
今日も一日安全作業で頑張ろう!ご安全に。