昔から、写真の見どころは、黒の締め具合であるということ。

平泳ぎで、ぐんぐん空を飛ぶ夢をある時期からよく見る、ひでっとるです。よろしくお願いします。

今回の話はプリントされた写真、紙媒体の写真の話です。今までに数多の美しいプリントを見て来たので、自分の中の良いプリントに関する基準みたいなものがあります。その必須条件について書きます。あくまでも個人の好みですが。

プリントの美しさは、作品の優劣とは別の評価軸なのですが、モノ的な価値を感じる要素です。写真を楽しむもう一つの見どころだと思います。

目次

写真のモノとしての評価、基本はモノクロバライタプリント

美しいバライタ紙のモノクロプリントを見ると分かるのですが、黒い部分に光が当たると、プリントが光を

「取って、入れて、出す」

ので、黒の中にも微かにグラデーションが現れて、何かが表現されていることが分かります。黒の中に表現できる階調がしっかりあるのです。その調子がハイライトの白い調子まで続いている。そこが心地よいし、プリントの見応えそのものだと思っています。

僕が若い頃は、まだ写真は化学の領域に属しており、撮影後の工程の多くを薬品が関与して、プリントの仕上がりを左右するのは、温度、時間の把握や丁寧な手作業でした。

  • 土台の紙の色が写真の画像の最も白い部分を決める
  • 画像をプリントするのは、白のベースに黒い粒子を化学的に乗せていく作業であること

を体感として理解しています。現在の写真は、多くがプリンターで出力するのですが、基本的には同じ考え方の産物にもかかわらず、どうも勘所がつかめていないプリントに多く出くわします。デジタル技術の影響か、ちょっと分からないのですが、体験してきたこととの違いを感じます。

個人的には、昔のプリントは、画像を形成する黒が粒状であること自体に、異常に興味をそそられました。

波動で存在している世の中を、粒状(粒子)の黒で表現する。物理学的二重性のメタファー的なメディアであると写真をとらえるならば、コヒーレントな光を被写体に当てて撮影すれば、仕上がるプリントの一部分が、全体のイメージを内包するのではないか、などど夢想する沼に時折ハマっていたことを思い出します。

脱線しました。要するに

モノクロプリントとは、黒を制御して画像を形成していくこと

で、いかに階調豊かに黒を使いこなすか、なのです。

黒の表現、雲上の仙人の手際

実際のプリント製作は作家本人とは限らず、プリントマンが介在していることがあることを、あらかじめお断りします。

杉本博司

まずは、杉本博司。2005年森美術館で開催された展覧会「時間の終わり」を超える展覧会を僕は知りません。圧倒的な質感とホコリ、チリすら入る余地のない額装。どのプリントもハイライトからシャドウまで計算しつくされたトーンで表現されていました。完全に制御された世界観でした。僕にとっての写真における美的感覚の基準です。

絶対的で、真似ができない、凄みと言うか、近寄りがたい感覚なので、基準として距離を置かざるを得ない存在です。

図録では分からない世界が確実にあります。写真に携わるならば、是非機会を見つけて積極的に彼の作品を観ることをお勧めします。

ハリー・キャラハン

1995年にアメリカへ旅行に行きました。その時NYのMoMAで見たハリーキャラハンのプリントに心を奪われました。奥さんが電柱の前に立ち、街の景色を背景とした写真です。当時の旅行日記を読み返すと、自分が日本で見ていたプリントはコントラストが高い傾向だと感じていて、一番黒の深い箇所も完全には黒くしていない。真っ白の部分にも確実にトーンを出そうとしている、とあります。

風土的な空気感なのか、単純に作家の好みなのか?は当時は分からなかったようですが、同時に展示されていた森山大道のプリントが、とても丁寧なプリントで、真っ白も真っ黒も適切に制御されながら、他の作家と違って明らかにコントラストが高かった。比較して見比べた印象ですが、イメージに湿度を感じたのです。日本人のプリントには【 湿度 】を感じていたようです。

その事を、一緒に旅行していた写真学校の講師は、日本の写真はリアルすぎる、と評していました。

当時の僕は、このハリー・キャラハンのプリントに代表される、乾いた感じのプリントに興味を持っていました。

ジョセフ・クーデルカ

この写真家はアメリカに旅行して初めて知った人で、旅行で立ち寄ったNew Orleansの写真ギャラリーA Galleryでプリントが数枚販売されていました。アメリカでは、観光都市にも写真を専門に扱うギャラリーがあることに驚いた記憶があります。他国の写真の文化に憧れを持つきっかけになります。そのギャラリーで、美術館の様に、有名な写真のオリジナルプリントを見ることが出来ました。当時の日記を引用します。

JOSEF KOUDELKA

11ⅹ14程度(よりやや小さいか)の伸ばしているのでピンの甘さなど少々あるけど、写ったものの完成度はすごい。今日もっとも気になった。始めの馬、犬は特にすごいと思う。犬での大切なことを理解した。黒い部分はつぶしたってよい。真黒部はアウトラインで見せること。これも、アンセルアダムスの山も、ピアノ(アーノルド・ニューマン)も、アウトラインの面白いものを黒くつぶしている。でないと、黒は締まらない。当然に隣り合ったトーンはより明るいこと。犬の周囲はすべて雪で、雪のかすかなトーンと犬の黒を両方を引き出すプリントはすごいことだと思う。

若さゆえにイキッた感じが恥ずかしいですが、プリント熱の高さが分かると思って発表しました。

リチャード・アヴェドン

アメリカの商業写真の大御所です。彼のプリント発注指示が書き加えられたテストプリントを見ると、一枚のプリントに何重にも焼き込みや覆い焼きの指示が明記されています。特に人物の顔への指示が、事細かになされています。

当時は、モノクロフィルムからのプリントでしたか、現在はデジタル画像処理がその役割を担うわけです。現在では、MarcoGrobやPlatonも、アヴェドンと同様な加工をデジタル画像処理でプリントしていると思います。力強いポートレイトには、必須な作法です。

自分のポートレイトも、顔を中心に画像を整える作業を必ず行います。

これらモノクロプリントの名作を踏まえて、カラープリントに挑むのです。

以上の話は全て、モノクロプリントについてです。脳内の半分以上がモノクロプリントに侵されていることが分かっていただけたと思います。

それを踏まえて、デジタルカメラの時代の現在では、カラープリントにリアリティを感じて、作品はカラーへ移行していきました。もちろん土台には、モノクロプリントの考え方を持って製作するので、ヤングなジェネレーションには、オールドスタイルな印象を持たれると思います。

それが多様な表現手法の一つとして受け入れてもらえると嬉しいです。

プリントとモニターで写真を見るのは、全く異なる鑑賞体験です。

実は、写真家がモニターで画像を確認して、調整した写真データーをプリントに発注しても、同じ印象の仕上がりを得られるのはかなり難しいことなのです。

脳内変換(もしくは、正確なモニターのキャリブレーション)で対応する必要があります。

モニター上で写真を見ることと、紙媒体で写真を見る行為は、どちらも同じように思いますが、イメージを追う目の動きが真逆なのです。

僕は、紙のプリントの背面から光を当てた展示をした経験があります。

これって、イメージの裏側からの光で画像を見る、つまりモニターの画像に近いプリントの見方をしてみたわけです(完全なバックライトだけでなく、正面からの照明の補助程度に背景からLEDで発光させたので、効果を確認する程度ですが)。

結論としては、紙媒体がもつ白い部分が目を支配します。つまり、明るい部分を目は追うのです。

通常のプリントで黒い部分を目で追う行為とは真逆の鑑賞態度でした。これは、自分では新しい発見で、モニター越しでの鑑賞はイメージに没入できない理由が分かりました。

紙媒体のプリントを眺めると、人はプリントのインクか、黒化した銀、すなわちイメージを形成する物質そのものを目で追うのです。

それに対し、背景光に向き合う場合は、表現されるイメージを目で追う前に、媒質そのものが見えてしまっている。一番明るく目立つのが、白く光る画像素子ですから。

バックライトを当てた写真の場合は、プリント用紙がよっぽど目に飛び込んでしまうわけです。明るいから。

表現するために加えられた色なり黒なりが、画像素子そのものの白に負けてしまうという矛盾。心がざわつき、じっくり眺められないわけです。

インパクトのある、刺激的な展示には向いています。遠くからでも目立ちますし。けれど、じっくり鑑賞したい場合は、モニターの画面は我慢が出来なくなるのです。

挑戦、紙媒体の事をモニター画像で疑似的に説明します。

やはり、紙媒体の価値はまだまだ重要であると思っています。

僕を魅了したモノクロプリントを踏まえて、ポートレイトのプリントは黒を如何に美しく見せるかに注力して製作します。その一端をご紹介します。

先ほども書きましたが、モニターでは、プリントの質を表現するのは全く別の作業ですが、疑似的に近い状況を示してみます。

5枚のプリントは作業の段階を示します。1枚目が撮影したままの画像です。このままでは、人物が背景から浮き上がってしまうくらいに光が多く当たっていて、背景や機械の部分はメリハリの少ない沈んだ画像になっています。

2枚目は、人物以外の背景部分のコントラストを上げつつ濃度を上げて人物に合わせていきます。白い背景の黒い人物を切り抜きしたマスクを使用しています。

3枚目は、人物のハイライトを抑えて、コントラストを整えます。人物のコントラストが強すぎる箇所があるので、人物自体のコントラストをなだらかにします。黒い背景の白い人物を切り抜いたマスクを使用しています。

4枚目は、今一度全体のコントラストを上げメリハリのある画像にしながら、最適なバランスで濃度を少し下げました。この段階で、黒が潰れた箇所と、白が飛んだ箇所が出てきました。

5枚目は、いよいよ黒に近い暗い部分をコントラストを持ち上げながら明るくしていき、ハイライト部分が飛んでしまわないように、コントラストを維持しつつ、抑え込みます。主に機械の部分を隠すマスクと、人物の顔右半分のマスクを使用しています。

5枚目は、色調を整えて、シャープネスをかけて、これで完成です。

4枚目と5枚目の違いは写真の印象を大きく変えます。5枚目では、機械の下半分を中心に、黒く潰れている部分に、機械の部品の一つ一つを読み取ることが出来ますし、人物の顔のテカリが抑えられています。

どこまでが表現で、正確な記録となるかは議論の余地がありますが、僕は、昔からネガの情報を最大限に引き出すことがプリントの極意で、写真の本来の作業と考えていますので、これくらいの手の加え方は、通常運用範囲です。

巷の多くの写真が、良くて4枚目くらいの、ハイライトが飛んで、シャドウが潰れて真黒になっています。もしくは、1枚目のメリハリのないプリントを見かけます。

もったいない。もっと階調が出せるのに、と思います。

確かに、モニターで見ている場合は透過光で見ているので、見た目で黒が締まらないから、脳内変換が正常に機能しない限り、プリントするための画像データはどうしても黒がつぶれてしまいがちです。

適切なカラーマネジメントで回避できるかもしれませんが、ここぞというときはやはりテストプリントを繰り返し、出力する必要が出てきます。

プリント作業は奥が深い。

プリントの黒だけは、実際に目の前で観ないと分からない

会期も残りわずかとなりましたが、一宮博物館の写真展示している新作3枚のプリントは、黒の表現に今まで以上に手を掛け仕上げましたので、是非、直接ご鑑賞いただきたいと思います。

特に人物のお召し物が真黒の写真の方は、モニターで念入りに確認して発注したプリントでしたが、黒く潰れてしまいました。やむなく再度製作をお願いした次第で、僕自身も勉強になった思い出深い作品です。

織機の暗部もしっかり潰れない黒で表現します。

展示写真を撮影しても、しっかり黒が潰れていないですし、引きで撮った上の写真では、全体の豊かな階調が見て取れると思います。

来週の14日まで、是非ご来場の上、体感いただきたいです。

今日も一日安全作業で頑張ろう!ご安全に。

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