突然、手作りの工芸製品である竹筬(たけおさ)を手にとって見せてもらう機会があって、その凛とした佇まいは、作者の普段からの立ち居振る舞いと共通するものでありました。自身の甘さを正さねば、とつくづく思う「ひでっとる」です。よろしくお願いいたします。
去る2022年11月19日(土)にトヨタ産業技術記念館で行われた、湿板光画家のエバレット・ブラウン氏のトークイベント「失われゆく日本」に参加しました。この講演会は、トヨタコレクション企画展の「うつす展」の特別企画として行われたものです。
うつす展とは
12月18日(日)までの期間ですが、名古屋市西区にある、トヨタ産業技術記念館にて、「うつす展」が開催されています。
うつす、というキーワードを【映す】【写す】【移す】と展開し、うつす行為にまつわる道具とその成果を展示し、技術発展の資料から未来の【うつす】を見つめ直す企画となっています。
道具などの展示を楽しめますが、成果物である映像そのものに非常に興味をそそられます。
副題が「江戸から未来へ、映す、写す、移す。」とあるように、幕末、明治の頃にうつした映像、画像が展示されています。これらが、とても見応えがあります。
まずは、想像以上に写真のクオリティが高いです。フィルムすら存在しない古い技法で撮影されている写真なのでしょうが、しっかりと解像していて、当時の様子が手に取るように、迫真力を持って感じることが出来ます。
目を引くのが、写真の見せ方を工夫して、動画的な映像を見せる装置があります。パラパラ漫画式に写真を見せる道具で、踊る女性の映像を見ることが出来るのですが、空間がそのまま再現されているような感覚が直に味わえて、衝撃に近い体験が出来ます。
写真そのものとしては、着色古写真がとても見応えがありました。
写真が日本に持ち込まれた頃に撮影されていると思われる、幕末から明治にかけての撮影された写真は、元々が白黒写真であるのですが、それに着色を施し、あたかもカラープリントのように現実感を少し追加した、写真の展示です。
着色自体は賛否ある行為だと想像しますし、僕自身もモノクロ写真はそのままで良い派なので、最初はいかがなものか、正直ためらいながら見てみたのですが、良い。むしろ、今回の展示の意図が、当時の日本の様子をうつした映像の展示であるため、単なるモノクロ映像ではない着色だからこそより生々しさが感じられて、見事なキュレーションだと、感心したのです。
自己表現の手法ありきでは眺められない、展示を企画する目線で仕組まれている意図のすごさを実感します。
それはさておき、やっぱり写真の記録性に改めて感動しました。丁度仕事の関係で、来場した数日前に修学旅行の集合写真を撮影するために奈良に訪れていた為、東大寺の大仏殿の写真に釘付けになりました。
全く印象が違うのです。今の大仏殿、物凄く綺麗になっているって気づきました。むしろ、大仏殿の南側の、運慶快慶の仁王像がある、南大門の印象に近い建造物であったことが分かります。着色されてより一層、そのように感じられるようですが。
現在の大仏殿は、モノクロ基調の近代建築の様なきれいな建物です。
江戸末期頃の大仏殿は、屋根の軒先が真っすぐでなかったり、軒の支えの柱があったり、鴟尾が違ってるし、現在のきらびやかで厳かな印象とは違い、巨大なものに対する畏怖、生々しい歴史の重みを直に感じ取れる様子だったことをこの写真は示しています。
この不安定な、ある意味崩れそうに見える状態こそが、リアルな歴史を物語っていることに気づきます。
そして、写真ってすばらしいな、と本当に思います。こんな気づきが長い年月を経た現在でも得られる。
次に、僕らにとっては、なじみ深い名古屋城です。
これも現在の印象に近い、屋根が青緑色に彩色された画像です。名古屋城は、太平洋戦争で焼失しているのですが、それ以前の姿を見ることが出来ます。いかんせん、写真が北西側から撮影されていて、逆光だからか、鮮明な画像とはいえない点が惜しい。
写真の解像度は記録性を担保する最重要な項目だとわかります。
その当時の技術を駆使して丁寧に作られているからこそ、現代の僕らにも何かしら心が躍る部分が経ち現れているわけで、やっぱり、丁寧な仕事を続けようと、改めて思うのであります。
人物の演出写真。飛脚を撮影した写真。
どんな撮影をしたのだろう。ロケかなぁ。背景を適切な場所を選んで、直射日光の当たらない漆喰の壁を探して、その前に人物に太陽光が当たる場所をみつけて。。。って考えているのもなんなので、調てみたら、どうもスタジオ撮影の様です。足元を見ても、自然な状況ではないですし。ただ、この当時、どんな光源を使って撮影していたのかは知りたいですね。当時の写真の感光材の感度って相当低いから、太陽光の様に強い光を用いる必要があるんじゃないかと考えると、うまいこと太陽光を取り込んで撮影していたのかなぁ、と想像します。光の当て方も上手いし、特徴的なポージングも新鮮な感覚で、今の僕らと地続きな感性が嬉しい感じです。
これなんて、記録しようとする意識はウジェーヌ・アジェと同じでしょう。パリの街角と、日本の陶器店との違いだけで、キッチリ水平垂直を出して、客観的な態度で撮影しています。店内奥の暗い部分の商品なんて、普通ディーテール出ないですよ。複写したデジタルデータ(この写真)でもしっかりわかる程、きちんとプリントされています。
技術的にも、感覚的にも、現在となんら変わらない、むしろ、より注意深い作業で写真が作られていたことが分かります。
この一連の着色古写真は、江戸から明治の開国直後、海外の人々にとって珍しい日本の生活様式を、演出はされながら写真に落とし込み、外国人旅行者への土産物として作られた写真です。人物に対する立ち位置の指示やポージングの演出は、写っている対象そのものを見せることに主眼があり、むしろ好感が持てます。記録性を邪魔していないと思います。
幕末の写真師としては、上野彦馬くらいしか知りませんでしたが、日下部金兵衛、フェリーチェ・ベアトなど、横浜で活躍した写真師たちの仕事に興味がでてきました。
これら土産物として消費される為の写真は、アジェが、絵描きの資料として販売する目的で撮影していた事実と同様に、明確な目的がありました。時が経ち、美術館や博物館で作品として価値を認められる写真は、撮影される段階の製作者の目的や用途にかかわらず、キッチリと当時の技術で出来る最高の方法で、丁寧に生み出されていることが共通項として浮かび上がっているように思います。それは記録性と同時に、写真というメディアの魔力が発揮される為の呪文のようだと思うのです。
エバレット・ブラウン氏の講演会
正確な時系列では、当日、先にエバレット・ブラウン氏の講演会を拝聴してから、うつす展の展示を鑑賞しました。
実は、僕を導いて下さるある方から、エバレット・ブラウン氏の講演会があることを教えて頂き参加できたのです。この講演会は、うつす展の特別企画であることを、会場で知り、展示を見るタイミングが後回しとなったわけです。
不勉強にも、お話を伺うまで、エバレット・ブラウン氏を存じ上げておりませんでした。事前の情報としては、古典技法を用いる写真家ということだけでした。良い機会でしたので、色々な情報を事前に調べずに、先入観なしで聞くことで、何が得られるかを楽しもうと思いました。
エバレット氏は日本の文化に精通したアメリカ出身の写真家でした。彼のルーツである祖先(エレファット・ブラウン)が既に日本文化にかなり寄り添っていたこともあり、彼の活動の軸足が日本に向くのも、必然と言えそうです。彼は、法螺貝(ほらがい)を講演会始めと終わりに吹きました。山伏の心得があるそうです。
時代感覚とリンクしない、古典技法をあえて用いて作品を製作することも含めて、かなり自己主張が強烈な人物であります。
その作家としての姿勢は間違いなく、成功する人の特徴だと思います。成功というか、より良質な仕事に繋がる環境を引き寄せるという意味です。
写真の古典技法への興味と意義
氏の扱う古典技法とは、具体的には湿板コロジオン方式と呼ばれる、江戸末期頃から主流となる方法です。感光材が湿った状態で処理を完結する必要がある為に、撮影場所に暗室を準備するなどの大掛かりな撮影方法です。非常に繊細さを必要とする方法で、ほとんどの写真にクラック(画像に薬品ムラや傷)が伴います。
実際に古典技法で写真を撮影する写真家に会うのが初めてだったので、とても興味がありました。
僕は講演会を通して、なぜ彼が古典技法を使うのか?を聞きたかったのです。わざわざ大変な手法を用いる理由を知りたかったのです。
やはり、そこは氏の作品の核心でもあった為、講演のなかで、自らの解説がありました。古典技法が、日本の古層を表現するのにしっくり来ると言う様な趣旨の話でした。確かに、日本的な文化には、茶道をはじめ所作を重んじるものが多い。それに寄り添った方法を用いる事が、日本文化の表現に相応しい。
だからこそ、生み出された作品は、高い評価を受けているのでしょう。作品を語る上でも説得力があります。
氏の理由と、僕の製作態度と比較した時、実は真逆な態度だと気付きました。僕自身は、いかに個性を写真作品の画像から消せるか、に取り組んでいるとも言えます。写真に作家の個性が不要になる段階を見定めようと考えています。それは、古い写真に接した時に感じる魅力を、自分の作品に落とし込もうとする態度です。
うつす展での着色写真から受ける写真の力、魅力は、作者の個性、感性よりも、単純に写っている被写体が、リアルに感じられて、眺めることが出来る装置になることだと僕は思うのです。
測らずも、氏の作品と一緒に展示されているので、見比べてることで、色々な発見があります。本当に示唆に富んだ企画だと思います。
エバレット氏の作品は力強い。着色写真と並べられて展示されていても、対等に存在感を放っています。それぞれの鑑賞者が、江戸期の古い日本から現代の日本の姿までを、時空を彷徨いながら、感じることのできる面白い企画です。
個性と没個性、自分事と他人事
まったく別の話なのですが、この記事を書いている途中に知り合った人との会話を紹介します。
僕の経験なんですが、自分事を肩肘張って押し通しても上手く進めなくて、他人事に意識が切り替わったら、自分事では叶わなかった事が実現できちゃったって体験があります。
ここで使う自分事とは、自分のエゴで、他人事とは、周囲の人の為に行動しようと思う気持ち、みたいに捉えてください。
つまり、長い時間、写真で食っていくぞって、もがいても全然実現出来なくて、ある時、妻からの提案を受けて子を授かり、個人的な我を通せない立場になってから、めぐりめぐって写真の世界に身を置く事が出来た。家族の事を考える様になり、家族内から外へ向け、周りの人に何が出来るかを考え始めるようになってから、自分事が実現出来たのです。
周りの人の助けがあって事は進んでいることを知ったのです。その連鎖が続いた結果が、写真作品として社会的意義を帯びて、アーカイブとして残る事が僕の理想です。
まとめると、やっぱり強く個性を打ち出す事と、自分の為と言えない、周りの人の為の行動と、そのバランスを上手く取れると理想的な写真が撮れているのかなあ、と考えています。
画像の仕上がりについて
僕は、手作りの痕跡みたいなものが写真作品の魅力の一部であり、作品の味だと思っています。何度も書いてるE.J.べロックなんか正にそう。でもそれって、必然と言うか、仕方なく起こった状態だからこそ、腑に落ちると僕は考えます。
古典技法の写真では、完璧な処理を施しても、何らかのクラック(汚れ)が入るようです。普通の処理で写真にはクラックがない現代では、見慣れないクラックのある写真からは、画像そのものに向き合う前に、クラックが目につき、素直に読み取ることは難しい。
所作を重んじる精神性が重要なことは、僕もフィルムプロセスから学んでいますが、仕上がりに対する影響が大きい気がします。それが、演出過多な印象を僕は受けました。法螺貝の音が共鳴してきます。
タイミングかも知れませんが、冒頭の件で触れた、竹筬(たけおさ)が、一分の隙もない完璧な仕上がりの品でした。今回の講演会の会場で開演前のひと時にたまたま見せて頂いていたのです。手作業の凄みを感じた直後だったのが、僕の眼を厳しくしてしまったことはあるかも知れません。
もろもろの諸事情が重なって、結局僕の中にあった古典技法の憧れが、憧れのまま保持するべきだと、頭の中で整理出来た気がしました。
古典技法を、効果として引用する位が正解だと思いました。湿板コロジオン方式の写真は、青色により感度が高いゆえに、独特な肌の質感が得られます。それをデジタルの画像処理を用いて再現するのは面白い試みだど考えています。
湿板写真や古写真を見て思う事
古の技術や写真は、僕らが写真を製作するための模範であり、乗り越える壁でもあります。写真は時が経った時に真価を発揮するメディアであることを忘れず、目新しさや時代性を上乗せして、写真を製作していきたいと思います。
今日も一日安全作業で頑張ろう!ご安全に。