展覧会岡本太郎に行き、心がざわつきはじめた事

久しぶりの投稿。出稼ぎ労働者の気分を味わう「ひでっとる」です。

新型コロナ感染者数が落ち着き、家族3人で展覧会に出かけました。息子も高校受験を終え、親としてもホッと一息の週末です。

最終日が次週となった「展覧会岡本太郎」を愛知県美術館に見に行きました。

まずは、想像以上に入場者がいることに驚きです。エレベーターを降りたらすぐ入場できるかと思っていたら、フロアいっぱいに列が出来ていました。

すでに神奈川県に岡本太郎美術館、東京の岡本太郎記念館が存在するのにも関わらず、この人出。

NHKで放送されたタローマンの功績もあるかも知れない。子供達も大勢来場していました。

年配の方は、懐かしい芸術家、タレントの作品展だから、多く来場されています。

書籍も多く出版されていますしね。岡本太郎は世間一般に浸透していることが分かりました。

幼稚園児から年配の方まで。老若男女問わず多くの人に、まだまだ発散するエネルギーが届き続ける。衰えていないことに凄みを感じます。

作品は、文字通り色褪せていません。不思議なほど生き生きとした原色が躍っている。何度見ても変わらず、いつまでも残り続けるイコンとしての存在感は格別です。過去に受けた衝動をありありと追体験できました。

コロナ禍を挟んだせいか、本当に久しぶりに混雑した展覧会に行ったので、強烈な違和感を感じた出来事があります。

想像以上の割合で、来場者が作品を写メしている光景です。

ガチで鑑賞するには恐ろしく邪魔な状況でビックリしました。完全に本末転倒な判断じゃないか?と。

SNS拡散での集客を期待して、最近の展覧会は場内撮影が許可されることが多いようです。この展覧会も注意事項を遵守した上で許可がなされていました。

若者ばかりではありません。小学生も、もちろん若者も。じいちゃんばあちゃんも。みんながカシャカシャ撮っています。鑑賞って行為が、撮影に取って代わる状況を、僕は飲み込めないでいました。

自分自身がこの変化に適応できずにいました。

この状況に直面してはじめて、撮影禁止の場だからこそ、美術館では作品を落ち着いて鑑賞できていたことに気づきました。つまり、撮影が禁止された、日常とは違う、非日常の異空間だからこそ、作品に集中できていたのだと。

多くの人がスマホで作品をカシャカシャする空間は、それはそれで異空間だけど。

もはや作品を以前のように鑑賞することが出来なくなっています。これが現実なのです。

あれ?何かが変わるぞ、と思ったのです。

鑑賞の態度が変わるぞ。

美しいものに向き合う姿勢が変わるぞ。いや、もうすでに変わってしまったのだと。

何なら、芸術作品のあり方すら変わるかも。

大衆と芸術の関係性を追求した岡本太郎の展覧会で見た、大衆にガツガツ消費されてしまう岡本太郎のイメージ。表象だけを貪りつくされたその写メのイメージで、岡本太郎の真意を果たして持ち帰ることができているのか。

表象だけ持ち帰ることが正義となる芸術のあり方って、実は新たなアートの方向性を示しているのかもしれない。

パブリックな場所に作品を展示する意義を理解していた岡本太郎が生きていたら、自分自身の回顧展のこの状況をきっと容認し、喜んでいるに違いない。とすれば、この先を見通せないでいる自分はまだまだだなぁ、と思います。

落ち着かない、置いてけぼりの鑑賞者の僕は、出口前の「座ることを拒否する椅子」だけが僕を拒否することなく受け入れてくれたような気がして、一枚だけ撮影して帰ってきました。

でも、今僕が取り組んでいる仕組みは、今回気付いた現実に適応するのには有効な術だと、何となく思い始めています。それはまた別の記事で。

今日も一日安全作業で頑張ろう、ご安全に。

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